被爆者の声
被爆者は高齢化し、私たちは被爆者から直接体験を聞くことが出来る最後 の世代と言えます。被爆者の「自分たちと同じ思いを二度と味あわせたくない」との切なる願いを 込めた証言に耳を傾けてください。
*平和学習に証言者を派遣しています。
*遠方の被爆体験講演会にはHRCPの伝承者を派遣しています。
被爆者の証言映像
被爆者からのメッセージを動画や記事で随時紹介しています
被爆者の声
若山 登美子さん(旧姓 三宅)
被爆前
私の家は広島市鉄砲町にありました。父42歳、母32歳、私6歳、妹1歳11ヵ月の4人家族でした。
私は、1945年4月に幟町国民学校(小学校)に入学したばかりでした。戦争中で授業は少なく、空襲から身を守るため、机の下にもぐる練習や、地面を掘って作った防空壕に入る練習など、ほとんどがそうだったと記憶しています。
母の話では「広島に大きな爆弾が落ちる」という内容のビラが落ちてきたそうです。父は母に強制的に「疎開しなさい」と言ったそうです。私は父が大好きでしたので「お父ちゃんと一緒でないとイヤ」と大泣きしました。
父は近所の食料品店に勤めていて、町内のお世話もしていました。「町内の人を避難させてから、ちゃんと田舎へ行くから」と、母と私に伝え、父だけが広島に残りました。
8月初め、母と私と妹の3人で、広島県北の河内村の母の実家に疎開しました。
8月9日 父を捜しに広島へ
8月7日に「きのう、広島にこれまでに見たこともない大きな爆弾が落ちた」と聞きました。父が田舎に帰ってこないので、母は待ちきれなくなり、8月9日、父を捜すため、おばと母が私と妹を連れて、4人で広島市内に向かいました。
避難していた河内村から約6㌔歩いて、三次駅に着きました。爆心地から約70㌔離れている三次駅にも、広島で被爆して大ケガをした人が、運ばれて来ていました。
そこで見たのは、頭の髪はジリジリになって、顔がまん丸くはれ上がって赤黒い色になり、眼がつぶれた人で、男か女かもわかりません。首から下によごれた灰色の布が掛けられて、3人くらい担架に乗せられ運ばれて来ました。
「お父ちゃんかね?」と言って、みんなで行ってのぞいてみたけど、違う人でした。国民学校一年生の私には、その大きくはれた赤黒い顔を見て、どうしてこんな顔になるのか、不思議でたまりませんでした。そして、今でも忘れられません。
三次駅から汽車に乗って広島駅に着いたら、広島は一面、見渡す限り建物がみな焼けて、町が無くなっていました。それを見てビックリしました。遠くの方で、立ち木が二、三本、まだ燃えていて、まだ地面が熱いところもありました。灰の下をのぞいてみたら、炭火のような火が見えました。母が「気をつけて歩こうね」と言ってくれ、気をつけて歩きました。
私たちは、わが家の防空壕の中など、あちこち父を捜し歩きましたが、見つかりません。
夕方、広島駅近くの警察署に勤めていた親戚の人に「泊めてほしい」とお願いしましたが「警察署の中には泊められない」と言われました。建物の軒下より少しだけ中に入れてもらって、そこで一夜を過ごしました。
8月10日 見たこと
10日の朝早くそこを出て、別の道から自宅のあった鉄砲町の方に向かって歩きました。その途中、電車一台が真っ黒焦げになって、ぐちゃぐちゃになって止まっているのを見ました。
また、黒焦げになった木を背にして、人が休んでいるのを見ると「あー、あれがお父ちゃんかもわからん」と言って走っていき、顔をのぞいてみました。
「ああ、違う、違うよ」と言いながら、一人ずつ、道や広場で休んでいる人を何人も見て捜し歩きました。みんな裸です。ふつうの人間の顔には見えなくて、大きく赤黒く腫れていました。ここでも私は「どうして、こんな顔になるんだろう?」と不思議に思いました。顔だけではなく、体中がパンパンにふくれあがって、赤黒くなって、まるでお化けのおすもうさんのようでした。
以前から父と母は、何かあったら牛田の知人宅へ行こうと約束していました。そこへ行く途中、橋の石の欄干が、片方は橋の中央に向かって倒れていて、片方は川の中に落ちているのを見ました。今思うと、これはすごい爆風で、石の欄干が同じ方向に倒れたのだと思います。
父との再会
牛田の知人宅に行くと、父が避難していました。父は、頭に家の大きな柱が落ちてきて、頭の脳みそが見えるくらい、大ケガをしていました。
父は白い布を頭からかけられ、白い布の間から目だけが見えて「ああ、登美子か」と、私の名前を呼んでくれた声で、父だとはっきりわかりました。私は、父を捜し続けていたので〈やっと見つけた〉と思い、ホッとしてうれしかったのを覚えています。
父は、8月6日の朝、出勤前に鉄砲町の自宅の中で、会社に行く支度をしている時に被爆し、頭に大ケガをしたけれども、ヤケドはしていないようでした。
母の姉が、近所で大八車(だいはちぐるま)を借りて、牛田まで迎えに来たので、父を乗せて、歩いて矢野町の伯母の家に行き、世話になりました。
父は岡山県出身で、父の兄が迎えに来て「岡山にいい病院があるから、岡山に帰って治療しよう」と言いましたが、父は「今は動けん」と言って断りました。
母は、父を小さな車に座らせ、その車を手で引いて近所の病院に通いました。父の頭の傷口にウジがわいてくるので、そのウジを取ってもらいました。ウジというのは、ハエの幼虫のことです。
父は「胸が焼ける、胸が苦しい」と言っていました。みんなが「ガスを吸うて、胸がつらいんじゃね」と話していました。その時はわかりませんでしたが、ガスと言われていたのは、放射線の影響と知ったのは、ずいぶん後になってからでした。
9月1日から学校があるので、幟町小学校から田舎の河内小学校に転校し、私だけが先に河内村へ戻りました。何日か過ぎて、9月14日に「お父ちゃんが死んだよ」と、母が妹をおんぶして、父のお骨を持って帰ってきました。
父は死ぬ前に、母に「今はまだ死にとうない…登美子らを頼む」と言って死んだそうです。父の遺体は、近くの神社の庭で6人ぐらいまとめて焼かれたそうです。焼くときに、係の人が「これがあんたの亭主で」と言って、端っこに置いて焼いてくれ、お骨が拾いやすいようにして下さったと、母から聞きました。
二次被爆者
私は、8月6日には広島市郊外の河内村にいて、8月9日に父を捜しに広島市内へ入り、まだ市内に放射線が残っていたことを知らずに入ったので、二次被爆者になりました。
2年生になった頃に、私の顔と手足ができものだらけになり、母が5㌔ぐらい離れた三次の町の薬屋に行って、白いネバネバの薬を買ってきて、塗ってくれました。顔中と手も足も、真っ白く塗って学校へ行きました。もちろん、友だちから「気持ち悪い」と言われました。母がドクダミ草を煎じて、飲ませてくれたのも覚えています。
またその頃、歯茎から出血し始めました。それがネバネバして気持ち悪いので、うがいをしたり、歯磨きしたりしました。でも、母には、歯茎から血が出ることを言えませんでした。
私の顔と手足にできものができた時、とても心配した母を見て、小さいながらに、これ以上心配をかけてはいけないと思ったのです。被爆して数日後、市内中心部にあったわが家の防空壕で、飴のように固まった粉ミルクを母が見つけ、それを食べたこともあるので、放射能汚染のせいで体調が悪くなったのかもしれないと思います。
就職試験で
私が小さい時、参観日に母が来られない時は、叔父や叔母が来てくれて、みんなにかわいがってもらったので、表面的には父がいないことを特別に感じていませんでした
しかし、高校3年生の時、就職試験の終わりに「ところで、三宅さん、お父さんを覚えとる?」と、面接官の人に声を掛けられた時に、ビックリしたのは「ハイ、少ししか覚えてないけれども」と言ったその瞬間、涙がワッと出てきました。心の奥では、いつも父を求めていたんだと思います。
あの時、思いがけない涙が出て、泣きじゃくりながら家に帰りました。辛かったです。父がいないさびしさをすごく感じて、悲しくてたまりませんでした。
被爆後の体調
私は、若いころから貧血と低血圧で、栄養剤を飲んで頑張っていました。それは今も続いています。65歳の時、乳ガンの手術を受け、その後、甲状腺も悪く、糖尿病と歯周病で通院しています。
母は95歳で亡くなりました。「みんな一緒に死ねばよかった。お父ちゃんだけ先に死んでから」と、さびしそうに言ったことがあります。
他の人から聞いたのですが「泣いとるヒマはなかった。二人の子供をどうして食べさせていくか、精いっぱいで、泣くヒマなんかなかった」と言っていたそうです。
〈父が生きていたら、こんなさびしい思いをしなかったし、母もこんなつらい思いをしなかった。もっと楽しく明るい生活をしていただろうな〉と思いました。
〔皆さんへのメッセージ〕
ぜひ、皆さんにお伝えしたいことは、戦争で肉親や友だちを亡くした私のような、苦しく悲しい思いを、皆さんには絶対させたくないということです。
皆さんは、戦争の苦しみ、悲しみは、わかりにくいかもしれませんが、人間が生活していく上で、平和がどんなに大切なものかを知ってください。両親、兄弟姉妹、おじいさん、おばあさん、友だちなどがいることは、とても幸せなことです。当たり前ではありません。
皆さんも私も、両親から尊いいのちを頂いて、今、生かされて生きています。どうか皆さん、いのちを大切にしてください。友だちのいのちも、自分のいのちと同じように大切にしてあげてください。仲良くしていきましょう。お互いに、話し合い、理解しあっていきましょう。それが、世界平和への出発点だと信じています。
玉川 祐光さん
8月6日朝…
私は、13歳の時に原爆に遭遇いたしました。広島二中の一年生でした。電車で作業現場に行くため、広島駅前の電停で待っている時に原爆に遭いました。
昭和20年8月6日はちょうど月曜日。当時は中学一年生、二年生は夏休みも日曜日も返上して勤労奉仕作業に従事しておりました。
当日は、中島本町、今の平和記念公園のすぐ南側、爆心地から600mくらい離れた所が作業現場でした。
当時、私は西条(現、東広島市)から広島二中に汽車通学していました。その日は、いつも乗る汽車よりも一列車遅い汽車に乗ったために、広島駅前の電停で被爆したわけです。
広島二中一年生
私たち広島二中の一年生は340名が入学しました。その内、当日現場に行っていた人は、6日後の12日までに全員が死亡しました。入学した者の内、全部で21名が生き残ったわけです。
いろいろな理由で、私のように汽車に乗るのが遅れたために、作業現場に到着する前で被爆した者、当日、病気で疎開先の地方におって休んだために生き残った人、そういうふうな人が、平成27年現在11名、残っております。
閃光をあびて
目の前で一瞬青白い、ちょうど電気のショートした時のスパークのような閃光を感じて、その後は気絶してしまって何も記憶がありません。意識が回復した時は、あたりは真っ暗でした。後から思い返すと、立っていた場所から2、30メートル離れた場所で意識を取り戻したように思います。
私が被爆した場所は、爆心地から約1.8キロ離れていて、後頭部に大きな瘤ができ、顔の右半分と両手の甲が火傷で水ぶくれになっていました。
爆心地では、3000度から4000度の強い熱線と、秒速440メートルという音速の1.3倍の爆風だったと言われています。
しばらく「どうすればいいのかな」と、あたりの静まるのを待っていました。夜明けのような感じで、舞い上がっていたホコリが落ち着いたのか、真っ暗だった視界が、少しずつ見通しがきき始めました。すると、今までなら見えるはずのない市内中心部のビルが見えます。それは、視界をさえぎる建物が倒壊したため見えるのだと気付き、大変驚きました。
これでは、集合場所にも、学校の方にも、とても行ける状況ではないと思ったので、一緒にいた友だちを探しましたが、一人とて見当たらず、やむを得ず、一人で広島駅の北にある東練兵場の方向へと避難をしました。
逃げる途中で
途中で、倒れた家の下敷きになって上半身が道路に出ている人がおられました。「助けてくれー」と言われるのですが、どうしようもなく、横目で見ながら逃げました。
他にも、火傷をして衣服もボロボロの人や、眼球の飛び出している人などに出会いました。今でも、強烈に思い出すのは、全身衣服はボロボロで、ベルトだけが体にまきついているような状態の兵士が、抜刀した剣を杖にして、訳のわからない呻き声を発して、仁王立ちになっている姿です。
東練兵場の裏で、お婆さんに声をかけられ、「あんた火傷がひどい。かわいそうに」と、持っておられた薬を塗って下さり、「とにかく、これじゃあ大変だから、早く帰りなさいよ」と声をかけてもらったのを覚えています。
二度目の災難
それから、徒歩で西条を目指して歩き始めました。その途中、昼前くらいに大勢の罹災者を乗せたトラックが通りかかり、わずかな隙間に無理やりに乗せてもらいました。ほとんどの人が火傷されていたように思います。
しかし、そのトラックが西条の手前10km位あたりで、運転を誤り、7、8m下の川に転落し、そこで二度目の気絶をしました。そこでトラックの下敷きになって亡くなられた方や、ケガをされた方もおられたと、後で聞きました。そこで私は気絶をして、腰から下が川に入って、ずぶぬれになっていたようです。私は農家の軒下に寝かされて、意識を取り戻しました。そこから、また家を目指して歩きました。
朝8時15分に原爆でヤケドをして、何も食べず何も飲まないで、約40キロ離れた西条の自宅に帰り着いたのは、夜の10時頃だったと思います。
その頃には、罹災者を運ぶ汽車が次々と西条駅に着き、両親はその度に私を捜していたようですが、駅とは反対側から帰ったので、両親は驚き、大変喜んでくれました。
その時に母が言った言葉を、昨日のように思い出します。私が「お母さん」と言ったら、母が「あんたは本当に祐光だね」と…。見た目には衣服はボロボロ、火傷で皮ふは焼けただれて、見分けがつかなかったのでしょう。
感謝
翌日、外科病院に行きましたが、廊下まであふれんばかりの罹災者でいっぱいでした。薬もなく、ほとんど治療らしいことはしてもらえず、火傷の傷口にキュウリをスライスして張ってもらって痛みを和らげる程度のことしかできません。私は3週間ばかり熱を出して、家で寝ていました。
私の家の向かいに、朝鮮半島から働きにきて、屠殺場に勤めていた方がおられました。その方が、翌朝、屠殺した牛の血液を一升瓶に入れて持ってこられ、「私の故郷では、これが火傷にいいんだ。牛の血液の上澄みの黄色い透明なところをコップに2杯位飲むように」と言われ、毎日届けてくださいました。屠殺後まもない血液ですから生温かく大変飲み辛いのですが、がまんして飲みました。家で治療している間中、持ってきて下さいました。
その後10数年経って、この事を整形外科の先生に話す機会があり、先生は「それは大変良かったと思う。良質の蛋白である白血球、血小板を供給したことが体力を維持し、細胞の再生に効力があったはず、その人に感謝しなさい」と言われました。国は違っていても、本当に真心からのお助けを頂いたことに、いくら感謝しても感謝しつくせない思いで一杯です。ありがとうございました。
ウジがいなくなる時
ヤケドの手当ては、一応外科のお医者さんに通ってみてもらいました。その時、重症のヤケドで入院している方々がうめかれる悲惨な状態を目の当たりにしました。
夏の一番暑い時、衛生管理も行き届かず、ヤケドしたところにガーゼとか張ってある上に、ハエがとまって卵を産み付けます。ハエの卵がふ化してウジになるわけです。ヤケドをした方々の傷に、ウジが発生したのを目の当たりに見て、〈非常に大変なことだな〉と思いました。
それがある日突然ウジがいなくなる。肌が桃色になってきれいになってくる。分泌液がなくなってくる。そうすると、その方は息が絶えている。ウジが湧いている時はまだ生命力があるけれど、命が亡くなる寸前には、ウジがきれいにいなくなって、分泌液がないから肌がピンク色になって、息を引き取っていかれるのを…。たくさんの人を見かけました。
今のような設備が整った病院ではないので、本当に雨露だけがしのげるだけで、病院の廊下までいっぱいに寝転がっているような状態でした。
アメリカ人に助けられて
原爆が落とされて、私は〈アメリカ人は非常に恐ろしい。とても人間じゃない、本当に怖くて憎い人だ〉というふうに思い続けておりました
しかし、1958年9月、私は沖永良部島で仕事中、米軍のタンクローリーと正面衝突事故を起こし、大腿骨骨折をした時、米軍は素早い対応で、パスポートを持たない民間人を、ヘリコプターを飛ばして沖縄の病院に収容してくれました。私の手術のために十数名の兵士が献血をして下さり、45日後に立川基地まで空輸してもらい、渋谷の日赤中央病院まで送ってもらうなど、大変親切にして頂きました。
あの時、人命を尊重し、国境を越えた救援をして頂いて以来、私はアメリカに対する考え方も変わってまいりました。かつては戦っていた国ですが、人との出会いによって、私の思いが変わり、朝鮮の方、アメリカの方、そういうご縁に触れたことが、私の人生の糧になったようにも思います。私は、二度も国境を越えた真心からの助けを頂いて、今日を迎えています。
行方不明の友人
私と同じ場所にいて被爆したのに、今も行方不明のままの友人がおります。その友人のお母さんは、毎日、毎日、私の家へ来られ、「うちの子はどうしたのか」と聞かれるのがつらく、顔を合わせないように逃げていたことを思い出すと、今も心が痛みます。
後に、そのお母さんが定期券を買って、毎日広島駅へ行き、何十年間も息子を捜し続けていたことを聞きました。大切な家族を失った悲しみは、いつまでも消えることはありません。
私は、わずかに生き残った一人として、生きることがつらい日々が続きましたが、今はこうして生かされているのは、亡くなった友人たちに代わって、命の尊さ、平和の大切さを伝える役目を頂いたのだと思うようになりました。
広島二中の慰霊祭
広島二中の慰霊碑が、平和公園西側の国際会議場の向い側の川岸に建立されており、毎年8月6日には、そこで慰霊祭が開かれております。
生き残りが集まり、一緒に慰霊祭に参加しています。大半が被爆して亡くなりましたが、縁あって生き残った我々同級生が、少しでも亡くなった友だちの御霊を慰めて、頑張っていこうと、お参りをさせて頂いております。
原爆の投下で、多くの死者、被爆者、また大変な被害を受けたことは、決して許せませんし、二度とあってはなりません。
どうか、一日も早い、核兵器のない、いや戦争のない真の平和の到来を願ってやまない一人です。微力ながら、体験を通じて、皆さまにお願いを続けていきたいと考えます。
〔 玉川祐光さんの紹介 〕
被爆当時13歳(昭和7年生)、広島県立広島第二中学校一年生。
8月6日朝、学徒動員の作業場所へ行こうとして、列車に乗り遅れ、爆心地から約1.8㎞離れた広島駅前の電停で被爆されました。爆心地から約600mの作業場所に、定刻に集合していた同級生は全滅しました。
平成13年から証言を始め、平成27年までの15年間で29回の証言をされました。
平成25年、韓国釜山で行われた世界教会協議会(WCC)総会で被爆体験を証言。玉川さんは「被爆後、朝鮮半島出身の方に大変親切にして頂いたお陰で今日があり、その方の母国で感謝の気持ちを表せたことは感慨深く、最高の喜びだった」と語っておられます。
〔 玉川祐光さんのメッセージ 〕
原爆が投下された空前絶後の惨事、被爆被害を受けて既に70年の歳月が経過しましたが、未だに原爆(核兵器)の廃絶に至らない現状に苛立たしさを覚えます。
しかし、被爆した広島・長崎の事実にもとづく被害状況を伝える被爆者の証言により、三番目の投下が阻止されていることは論をまたないところです。
被爆者の一人として、生あるかぎり核兵器の恐ろしさを発信し続け、平和到来を千秋の想いで待ち望みます。
蜂須賀 智子さん (旧姓 北川)
被爆者の平和への願いと義務
今日本は60年の長い平和が続いている。貧しい国から富める国に変貌した。これからも貴重な犠牲者の血であがなった平和を、永久に続行していく義務があると思います。 いまや、運命の8月6日午前8時15分を境として、人々の価値観も、倫理観も、取り巻く環境も、なにもかもすべてが、大きく変わった。逆転の発想のなかでの人々の努力が実り『豊かな国』に変貌した…。 「水清くして山河あり」わが郷土は、もはや追憶の「美しき日々」たらんとしているが、生き残った人々は営々として働きながら贖罪に苦しみ、「御霊安かれ」と、ただ戦争の起きない平和を誓う。 今被爆者の平均年齢は70数歳といわれ、次第に老化が目立ち、次に来る被爆70周年記念日には……恍惚の世界を彷徨っているかもしれず……記憶は風化され正確に、脳裏に甦ってくるだろうか? 自分の真実を伝えていくのは今しかない!
夏が来ると思い出す
毎年夏が近づいてきますと、思い出したくなくても本能的に8月6日の原爆投下の惨状が甦ってきます。黒髪長く(と言いたいけど校則で口の線より長くしてはいけない)夢多き乙女は女学校の2年生、食糧を自給するため校庭を掘り返す開墾作業や建物を取り壊した後片付けに駆り出される日々の連続でした。当時のクラスは僅か十数名でしたが、戦争末期には軍需工場に学徒動員されました。 工場は爆心地から1.4キロの近距離で以前は(三宅製針)という会社が広島県の特産品である(針)を生産し県の産業の一翼を担っていました。工場の階下には大きな機械が並び、工場長さん、工員、挺身隊(独身の若い女性で組織されていました)動員学徒、事務員など、みんな2階で作業していました。 何時ものように午前7時30分朝礼を終え2階の持ち場へ。私は友と二人で作業材料を受け取りに階下に降りました。そこで待っていると突然、物凄い炸裂音と閃光が走り、白煙がドッと吹き上がって全体を覆い尽くしました。しばらくの間、気を失っていたのか気が付いたときは工場の下敷きになっていました。幸いにも脚部には空間があり、足をばたつかせながら必死になって助けを求めました。 かなり時が過ぎて、誰かが「ガバッ」と私の両足首を両手で掴み思いっきりの力でひきずり出して下さいました。
瓦礫の市街
工場から引き出され、意識朦朧の私の視界にはいったもの……それはもう息をのみ、ただ呆然とするのみでした。なんと遥か彼方まで見通せる瓦礫の海だったのです。中国新聞社の残骸、崩れかけた広島駅まで見通せる。余りの壮絶さに私は判断できぬまま、その場にしゃがみこんでボンヤリしておりましたが、所々に生えている雑草に自然発火して、ボゥーボーと燃え始め炎は私の背丈くらいに達し、やっと重い腰を上げフラフラしながら土手を越えて、天満川の河川敷に脱出しました。
この世の果て地獄絵図
河川敷に出てみると、なんとこの世の様とはおもえない地獄絵図でした。顔面蒼白うつろな表情で髪を振り乱してウロウロしている人たち。ずる剥けの赤身にただれた皮膚が垂れ下がっている。顔半分が陥没し、ゴロゴロ横たわっている人や、ただじっとうずくまっている人たちで、河川敷は溢れ返っておりました。 神様や仏様は天上からじっと見ておられる…これがこの世の姿なのでしょうか。 余りの悲惨さに人々は言葉にすること、口に出すことができなかったのです。そこで偶然一緒に階下に降りた友人とばったり出会い、抱き合って無事を喜び、再会を約束して友は古江の自宅に帰っていきました。
泳いで川を遡上
広かった河川敷も潮が満ち始め、少しずつ狭くなりました。今逃げてきた土手の方はもう火の海。怪我を負った人々も這いずりながら移動している。どうしょうか…川の石段に腰掛けていると地獄の河原を彷徨っている得体の知れない幻覚にとらわれていましたが、ふっと我に返り決心する。 〈この川を泳いで逃げよう!〉 川面は青く澄み切っていて、美しく無情に流れている。静かに上流に向けて泳ぎはじめました。広い川の中をたった一人、心細さと不安のなか13歳の少女は懸命でした。 突然、脳天を叩かれたような大変な事態に直面しました。 「未知との遭遇」の連続です。川面からその光景を見上げたとき、泳げなくなりました。 なんと、大きな木造の橋が燃え盛っており、火達磨になった大小の木片がどんどん川の中に落ちている。前にも後ろにも動けない。状況をじっと見ていると次第に落ち着き、勇気も湧いてきて、潜ったり、右や左に、岸壁の隅をなぞらえて、橋の下を泳ぎ抜けることが出来ました。
黒い放射能雨
しばらく泳いでいると周囲の光景が次第に、田園的のどかな佇まいとなり、畑もあちこちに見え川岸にも夏草が生い茂るようになり、長くて強そうなのにしがみついてやっとのこと、這い上がることが出来ました。 疲れた体を休め、濡れた衣服を乾かしていると俄かに、空が暗くなるとともにザァーと大粒の黒い雨が少しの間勢いよく降り、また何事もなかったかのように真夏の強烈な太陽が顔を出しました。ただ漠然と不思議な事もあるもんだなあーと感じたものです。後でわかったことですが、この黒い大粒の雨は強い放射能をおびた雨だったのです。そこに座り込んだままで夜を迎えました。 夜の帳(とばり)に包まれるともう紅蓮(ぐれん)の炎を上げて夜空を焦がしている。 〈あー 広島の街が燃えている〉 渦を巻き火柱があがる。 〈両親はどうしているだろうか?〉 〈どうか、助かっていて!お母さん!〉 無限大の真暗闇の草むらの中で私は泣きながら、恐ろしさにも震えながらやっと朝を迎えました。
市内の惨状
私は〈家に帰ってみないと〉と思いました。この地点は西の外れ、家は東の方で京橋川の川沿いにあり直ぐ近くに有名な縮景園(浅野藩の庭園)があります。東に向かって歩き始めました。 道路の両側にはすでに、ムシロがひかれ大勢の重傷者が横たわり苦しみながら、皆一様に水を求めていました。 馬の死体が目に付きゴロンと仰向けになった大きなお腹はパンパンに膨れ上がって真二つに裂け、中から臓物がだらりと流れ出て、真夏の強い日差しに反射して異様な光を放ち、鋭い臭気も放っておりました。 市の中心部に近づくにつれて炭化した遺体が多く、性別も表裏も判別できず、ただ丸い頭部と長方形の胴体に短く黒い棒状の手足が付いているのです。 夕暮れ近くになってやっと上柳町(現在は上幟町)の自宅に辿りつきましたが、見渡す限り一面の焼け野原、人っ子一人もおらず、シーンと静まり返った音のない焼け野原は不気味な世界そのものでした。
重症の母親と涙の再会
寂しさに絶えながら仕方ないので、縮景園に行ってみました。なんとそこには、町内の人たちがたくさん避難しているではありませんか。私を見ると肩を抱き、手を握って無事をよろこんでくれましたが、誰も両親の安否を知るものはいませんでした。 ここも広い池の周りを避難してきた人たちが何重にも取りまいてごった返し、修羅場の様相を呈していました。 始めて、まぶしいようなご飯の三角おむすびをいただき、ひとくち口にした時、凍りついた私の心の中をなにかしら細い細い血の流れが、すうーと、通りすぎていく……。悲しみがどっと噴出し、もう声を上げて、知らず知らず、長い間泣きじゃくっておりました。夜明けとともに、たくさんの人たちが無念の旅立ちをしました。 お昼頃、いとこが私を探しにやって来て、両親が親戚の家に避難していることを知らせてくれました。 身も心も萎えて消沈しきっていたのですが、この知らせで全身に活力がみなぎり、天にも昇る夢心地でした。 避難先は遠くて、今の東雲、仁保の方です。当時は広島駅から果てしなく続く、はす畑とトウモロコシ畑の中の細い一本道、カンカン照りのなか汗みどろになってたどり着き、両親と涙の再会を果たすことが出来ました。 母はワンピースから露出している部分、顔から首、胸、両手、両足、大火傷で顔は腫れあがりべったり血膿で覆われ、それは、それは無惨な状態でした。もちろん眼は潰れていて私の顔を見ることは出来ませんでしたが、ただ、ただ生きていたことが嬉しくて、なんとしてでも私が治してみせると心に固く誓い、体が震えたのを記憶しております。 父は可部に疎開している会社に向かう途中、引き返して母を探しだし、背負って避難したと言っておりました。兄が一人いるのですが、大学理工学部の学生で帰省せず東京にいたので助かりました。
終戦の詔勅と電気の有難さ
ずる剥けの火傷との対決が始まりました。 田舎なので野菜は充分にあり、キュウリ、ジャガイモ、トマトなどおろし、布でこして、その液をガーゼに浸して貼っていく…。高熱なのですぐに乾きます。手足の指に貼り付けるのは大変でした。また、はがしていくタイミングも重要でした。血膿の匂いをかぎつけて真っ黒い大きなハエが飛んできて卵を産み付けるとすぐ蛆(ウジ)が湧きだすので、昼となく夜となく団扇であおいでいました。薬がないのでよくはならないけど、ひどくならなかったのは幸せでした。 そんな看病に明け暮れていた8月15日の正午、天皇陛下のご詔勅を聞き、〈日本は負けたのだ!〉全身の力がスゥーと抜けていく感覚を覚えたものです。 その夜、電気の明かりを漏洩防止するために電燈の笠にかけていた黒い布の下に、踏み台を持ってきて、その覆いをそっと除いた時、青白くキラキラ輝いた光が、まぶしく私の眼の中に沁み込んできました。〈戦争は終わったのだ!〉なんともいえない安堵感と嬉しさがじわじわとこみあげてきました。 思うに、この一球の光は、平和の尊さ、原爆の悲惨さ無惨さを教えてくれた光。はかり知れない多くの犠牲のうえに成り立った尊い教訓を次世代にお伝えする責任、そして一人では何もできないけど、一人が立ち上がらないと更に何もできない。志を共にする人たちと手をつないで一筋の道を歩んでいきます。
愛しき友よ!安かれ
お陰様で翌年、小学校に医療チームがきて柔らかい春の日差しの中、野草が芽をふき命ある幸せを実感しながら、母の手を引きソロリソロリと行って診察、薬を貰いましたらもう薄紙を剥いでいくように次第によくなり、元気になりました。 私の経験した辛さ、苦しみ、深い悲しみは決して口外することなく、心の奥底に封印されたまま数十年の歳月が流れました。でもあの日が近づくと、どっと封印を破って、友、友の顔が並ぶ。あの工場の二階にいたすべての人たちは、爆風によって吹き飛ばされ、永遠に消え去りました。そして再会を誓って別れた友も原爆の後遺症に苦しみながら亡くなりました。 学校の帰り道、赤い鼻緒の下駄を引きずりながら、試験のある科目を大きな声で暗誦しながら帰ったり……。嬉々として戯れあったあの笑顔は、どんなに月日がたとうとも生々しく悲しいものです。 何も知らないで、母の看病していた私は3学期になって登校し、始めてたった一人生き残った事実を知らされました。 平成14年、原爆慰霊式典で「高齢化していく被爆者を憂い、同時に被爆した人は核廃絶・平和を、若い次世代の人たちにお伝えして行く義務、責任、使命があるのではないでしょうか?」と問いかけられ、現実から逃避していた私は愕然とし、即座に証言者としてお役に立たせて頂きたい旨、申し出ました。 今私には、多くの友が笑顔で肩を叩き、背中を押してくれています。精一杯、身近なところで世界の人々が安心して暮らせる、平和。 核の破棄 。 21世紀のテーマに向かって情熱を燃焼させ、鎮魂の誠を捧げたいと思います。
〔 蜂須賀智子さん紹介 〕
被爆当時13歳(昭和6年生まれ)広島市立第一高等女学校二年生。 爆心地から1・5㎞天満町、三宅製針工場内で学徒動員中に被爆。 平成14年、原爆慰霊式で被爆者への言葉を聞いて、それまで貝のように口を閉ざしていたことが恥ずかしくなり、その日にHRCPに証言をしたいと申し出られ、証言を始められました。
〔 蜂須賀さんのメッセージ 〕
人類最初の被爆体験を継承して、後世に残して下さる凄いことが実現しました。 被爆70周年を振り返ってみると、“一人では何もできない。でも一人が立ち上がらないとさらに何も出来ない”との思いです。証言者として15年間、スタッフの方々に守られ、手をつなぎ、志を一つにし、平和を願って一筋の道を歩んできました。御仏様の大いなる力と日々対峙し、有難くも少しずつ前に歩んで参りました。 70周年の事業として、私の被爆体験を伝えて頂ける運びとなりました。もう私は、いつ仏様から招集がかかってきても大丈夫なんですよ!ふわっと、温かいものが、心の中に忍び込んだ境地のこの頃でございます。
吉田 章枝(よしだふみえ) さん (旧姓 林)
八月六日
八月六日、朝七時前、私は、動員先の大洲四丁目の工場に出勤するため家を出た。いつもまだ寝ている父が起きだして「今日は、警報が出ているから気をつけて行きなさい」と玄関まで送って下さる。「行ってきます」父の顔を見ながら云った。
私は、女学校四年生。三年の二学期からこの工場に動員されていた。外はぎらぎらと、夏の日がまぶしかった。工場に入り、仕事が始まった。私は旋盤の前に立ち、やすりを使っていた。潜水艦に積み込む配電盤の部品を作る作業だ。
突然、ピカッと光が目にとび込む。反射的に机の下に身を伏せると同時に、建物の土壁やガラスの破片が降りかかってくる。
おさまった頃、机の下から這い出す。何が起きたのかわからないまま、そばの班長さんが私の手をひっぱって走り出され、そのまま防空壕にとび込む。
どのくらいの時間が経ったか、私は工場の食堂の窓から外の道を見ていた。身にボロ布をまきつけたような人達が、両手を前に出してゾロゾロと歩いている。次から次へと、同じような格好をして、歩いている。それが、火傷だとわかったのは、大分経ってからだった。
「広島駅の方がやられたらしく、火災が起きているから駅前は通れない」ということだった。長い長い時間が経って、牛田へ帰られる先生に引率されて、友人四人と帰途につく。線路に止まったままの貨車の下をくぐって、矢賀に出た。 大内越峠(おおちごとうげ)を越えようと峠に上って見ると、市街地は真っ黒い煙でおおわれて、何も見えない。火の先は尾長まで延びてきている。峠を後戻りして、中山、戸坂を通り、夕方おそく、饒津(にぎつ)神社前まで帰る。
その時、一人の友人が、火傷で顔もはっきり見えない子供を「○○ちゃん!」と呼んで近づいて行った。それは、弟さんだった。「むこうから『おねえちゃん!』と呼んだからわかったけれど、呼ばれるまでは全く気付かなかった」と、後になって話していた。饒津神社の境内に、母を見つけた。両方から駆け寄り抱き合った。涙があふれた。父も姉も妹もみんな帰って来ない。家は全壊して、跡かたもない。その夜は、倒れた家から畳2枚を近所の人が持ち出して来て下さって、みんなで横になった。
八月七日
翌朝早く、八丁堀の家へ帰るという友達二人と一緒に出かけた。常盤(ときわ)橋を渡り白島へ入る橋のとなりの鉄橋の上で、倒れかかった貨車がまだ燃えている。白島で二人と別れ私は一人で、姉を探しに師団司令部(広島城内)へと向った。
道には、何もかも、黒焦げになってごろごろと、ころがっている。倒れた電柱の先から、火がちょろちょろと燃えている。音もなく、しんと静まりかえった街、動きのない街を私は、一人で歩く。足許ばかり見つめてしばらく歩いている中、遂に、恐ろしさに、私の足は進まなくなった。
遠くから人影が見えてきた。その人は、島から船で来て、宇品から歩いてきてこれから牛田へ行くという。私は、そのおじさんにお願いした。「どうぞ、わたしを饒津のところまで、連れて帰って下さい。一人では恐いのです」と、後ろからついて帰る。
午後、校長先生に道で会った。校長先生は「三年生が師団司令部でたくさん怪我をして、東照宮の下にいる。人手が足りない。手伝ってもらえないだろうか」と、仰った。私は事情をお話してお断りした。今は、母一人を残して、どこにも行けないと思った。
夕方になって、お隣の奥さんの遺体を、建物の下からご主人が掘り出された。その時、そこの長女ののりちゃんが帰ってきた。妹さんは建物疎開に行っていて、全身大火傷を負って防空壕に寝かされていたが、「おかあさんが、見つかった」と、お父さんが知らせに行くと、もう息絶えていた。
「幸枝は、お隣の奥さんと一緒に、どこかへ逃げたのだろうか」という母の希みは絶たれてしまった。妹も我が家の下敷きになっているに違いないと思っても、女手ではどうにもならない。
妹 幸枝(ゆきえ)のこと
翌日夕方になって、やっと、家路に急いでいる消防団の人に無理にお願いして、探して貰った。母が「居ったよ、幸枝が居ったよ!」と叫ぶ。藤色地に水玉もようのワンピースが見えてきた。妹は、大きな梁を首に受けていて「即死だろう」と、云われた。ピカッと光った瞬間「お母ちゃん!」と一声、大きな声で叫んだということだったが、母も建物の下敷きになって動けない。「すぐ行くから待ってなさい!」と、母も叫んだという。
妹の身体はやわらかかった。傷一つなく、まるで眠っているままの姿で母に抱かれていた。どこからか、おはぎが一つ、ころがり出ていた。それは五日の夜、姉十九歳、妹七歳の誕生日を祝って、母が心をこめて作ったおはぎだった。姉や妹の笑顔が浮かぶ。妹の遺体は、母と二人で抱いて東練兵場へ運んだ。係の人に渡す。そこには、山のように積み上げられた遺体が、どんどん燃えてゆく。ごうごうと音を立てながら焼かれていく。手を合わす間もなく水玉もようのワンピースも燃えた。
翌朝、お骨を拾いに行く。誰のものともわからないお骨が、山と積まれている。その隣ではまた、新たな遺体が焼かれていた。
姉 涼枝(すずえ)を探して
翌日、夕方近くなって母と二人、姉を探しに師団司令部へ行く。広島城は天守閣もない、建物も一切ない。お濠(ほり)近くには黒焦げの死体が折り重なり、濠の水にはたくさんの人が浮かんでいる。燃え残った大木が、ななめになって何本か立っている。
司令部跡に、軍人さんがただ一人腰掛けていた。母は「林 涼枝の母でございます」。と、挨拶した。偶然にもその人は姉の直属の上司、山本曹長さんという人だった。五日から大阪に出張していて、七日に急いで帰られたとのこと。母は重ねて云った。「覚悟して来ておりますが、娘は?」。と。その人は「こちらへ」。と案内して下さった。「ここが、林さんの机があった場所です。『おかあちゃん、助けて!熱いよ!』と、叫んだそうです」と、仰った。母はその場にしゃがみ込み、焼跡を掘った。お骨が出てきた。真っ白にやけて小さくなっている。母は頭骸骨を持って「娘です。間違いありません。この小さい歯は、涼枝の歯です」と言って、抱きしめて泣いた。いつまでも、そのまま動かなかった。しばらくして、軍人さんが何か云われた。母はいつのまにか用意して来たらしく風呂敷を出して、お骨を拾い始めた。その人も手伝ってくださる。私は何故か涙も出ずに立ちすくんだまま、その光景を眺めていた。
田舎から祖父が出てきて、姉と妹のお骨を持って帰って行った。その夜、私は、母の手を取って云った。「お母ちゃん、大丈夫よ。二人で生きていこうね。私はもう子供じゃないんだからどんな仕事もできる。工場のお仕事でも何でもできるんだから、二人で生きようね」と、二人で抱き合って泣いた。母は何も言わず強く抱きしめてくれた。
父を探して…
次の日から母と、父を探しに出かけることにした。父はあの日、いつものように八時ちょうどに、自転車に乗って出かけた。出掛けに、母が銀杏の実を植木鉢に五つうめておいたのが、四本だけ芽を出しているのを見て「四本じゃいけん。もう一つ植えておきなさい」と云い置いて行ったとのことだ。自転車で十五分といえば、どの辺りを通っていたのだろうか。皆目、見当がつかない。
八丁堀の辺りか、或いは相生橋のあたりだろうか。毎日々々、人の集まっている所、救護所になっている所と、父を尋ね歩いた。どこかに名前が出ていないだろうか。何か手がかりになるものが残っていないだろうか。もう黒こげの遺体を見ることも川の中に浮かんで、大きくふくれてしまった遺体を見ることにも、だんだん恐さを感じなくなったような気さえして来る。
水道管が破れて水がふき出しているのを口に含み、タオルを水でしぼって頭にかぶり、焼跡の街をあてどもなく歩く。東から西へ、北から南へと……。
どこからか「戦争は終わったらしい。日本は負けたんだ」という声が伝わって来るようになった。
母は、庭に埋めておいた陶器類を掘り出して、お金に替えてきた。おばあちゃんの形見の錦手(にしきで)の大皿も、父が好きだったどびん蒸しのセットも、みんな出してしまった。
お隣のご主人の様子が、おかしいらしい。歯茎から出血し、下痢が止まらない。顔には暗紫色の斑点が表れ始めた。ある朝、親戚の人が大八車を持ってきて乗せて行かれた。のりちゃんが、後からついて行く。お母さん、妹さんと続いて亡くしてしまったのりちゃんが、とぼとぼと歩いて行った。
九月になって
周りは急に淋しくなってしまった。気が付くと、公園から段々人が少なくなっていく。九月に入り雨が降り出し、暑かった夏も終わりに近づいた。
或る日、母が言った。「お父ちゃんは、あの爆風で吹き飛ばされたんだ。『秋子、秋子!』と、呼んじゃっただろう。これだけ探して見つからないということは、きっと、そうだと思う。死亡届を出そうと思うけど、それでいいか」と、きいた。
父も、姉も、妹も、みんな母の名前を呼びながら逝ってしまったのだ。私は、母の云う通りだと思った。「それでいい」と、うなずいた。母と共に、市役所へ届を出しに行った。何の証拠もない、行方不明のままだけど、何とか届は受理された。
お父さんは、私たちの中に生きている。私の胸にいつまでも生きつづけている……。
次の日、父の勤務先へ届けに行った。ガランとした広い事務室にたった一人、男の人が居られた。手続きを終えたあと、父の机の中から萩焼きの小さな一輪差しと、お湯呑を持って来てくださった。
父、五十歳一ヶ月だった。
〔 吉田章枝さん紹介 〕
被爆当時16歳(昭和4年生まれ)、比治山高等女学校4年生の時、学徒動員で爆心地から4㎞離れた中国電力大洲工場にいて被爆。当時50才のお父さん・19才のお姉さん・7才の妹さんを原爆で亡くされました。
平成17年(2005年)、被爆60年の年に初めて被爆体験手記を書かれ、それを機に、被爆体験を話されるようになりました。
〔 吉田さんのメッセージ 〕
今年、被爆70周年を迎えました。私は原爆の記憶から遠ざかりたい、忘れたいと思い続けました。しかし、被爆60周年の時、「こんな家族があった。こんな人が生きていた。そして、こんな暮らしがあったということを、誰かに伝えなければならない」、そんな思いになり、やっと手記を書きました。
二度と、私のように悲しい思いをする人がないように、争いのない、核のない、平和な世界が訪れるように、と祈ります。
吉田智加江(よしだちかえ)さん
小学校六年(当時小学校一年) 松本智加江
その時私はまだ一年生でした。八月六日の午前八時ごろ、父はけいぼうだんのはん長なので、けいかいけいほうに入ると、手早く身じたくをととのえて、家を出られました。私はこうしどの所で、「行ってお帰り」といいました。父は「うん、行ってくるよ」といって出られたので、私も近くのお寺へ勉強しにいきました。
お寺についてまもなく、ひこうきの音がブンブンきこえてきました。とつぜんピカリとひかり、ドンと大きな音がきこえたかと思うと、大きな建物が私たちの上にたおれて、私は大きな木の下におさえつけられ、あたりはまっ暗になりました。私は声をかぎりに、大きな声でさけびました。私の名をよぶお母さんの声が、かすかに耳にきこえたような気がしましたが、まもなくその声もきこえなくなりました。
私はやっと近所の人に助け出してもらいました。その時は、私の顔からも、手からも、足の方からも、血が出ていました。私が近所のおばさんにおわれているところへ、私のお母さんは、けいぼうだんのつめしょに行っていたと言いながら、かけつけてこられました。お母さんは、そのおばさんにお礼を言って、私をだいて、水で顔をふいてくれました。お母さんはもう一度家の中にはいり、きちょうひんだけをもって、私をおぶって、三歳の妹は、とうじ高等一年生であった兄におわれて、東れんぺい場にひなんしました。その時はもう、あちらこちらと火が出ていました。れんぺい場では、ひこうきのくるたびに、あちこちのどぶの中に、ひくくかがんでいました。火はさかんにつぎつぎともえうつり、空はけむりのため、まっ黒になりました。
やがてひこうきの音もきこえなくなり、夕方近くなりました。天神さまのところで、きずの手あてをしてくれるというので、母におわれて行きました。母は、はだしのまま、けいぼうだんのふくをきて、顔はほこりでまっ黒になり、血みどろなからだをしていました。ちりょうしょに集まって見ると、それはそれは、私どころではなく、たくさんの大けがをした人、からだ一面やけどをした人たちがいました。私たちのけがは、なかなか手あてをしてもらえませんでした。お医者は六時にはそこをひきあげるといわれるので、むりにたのんで、やっと手あてをしてもらいました。その晩は、私の家の近所の人といっしょに、れんぺい場でやすみました。火がつぎつぎともえうつって、全市は火の海となり、私たちの上にまで火のこがとんできました。やっと一夜をあかし、朝になり、家に帰ろうとしましたが、あつくてかえられません。
夕方になって、家の方に帰って見ましたが、やけたあとはかわらだけでした。
母は、父のありかをさがすため、あちこちと手をのばして二、三日すぎました。九日の朝、せいりにこられたへいたいさんにかつぎだされたのは、父のかわりはてたすがたでした。京橋町の保田の方が、けいぼうだんのつめしょで、父は前の年にこわされた高いえんとつの下で死んでいたらしく、あたまの方は、もう白骨になったすがたで、かつぎ出されて来ました。人ちがいではないかと思われましたが、わずかのこった、けいぼうだんのエリショウで、父だとわかり、あまりにあわれなすがたに、母をはじめ、私や小さい妹も、思わずその死がいにとりすがって、なきさけびました。それから母は、そのおともをして、松川町のやきばへいって見ますと、死人が山のようにつまれていました。父だけは、へいたいさんがせきにんをもち、別に一人はなれたところでやいてもらいました。
よく朝、母は父の骨をもち、私をおんぶして、妹は兄におわれ、母の里へと、げいびせんにのっていきました。きしゃはけがにんでいっぱいで、大へんなさわぎでした。甲立のえきにおりると、むかえに出向いた人たちもありました。でも、私たちをむかえる人はおりませんでした。いなかのおじいさんも、おばあさんも、もうとっくのむかしに死なれ、母の弟は、二人とも南の方でせんしをしておりました。私たちはお父さんの家にゆき、それからお寺へ父の骨をもってゆき、おきょうをあげてもらいました。十三日の新盆の晩に、父は火の玉になって家のまわりにすがたを見せましたが、アッというまに、すぐ近くの松林の中にきえてしまいました。十五日に又ふたたびひろしまに帰るとちゅう、甲立のえきまで出ると、天のうへいかのじゅうだいほうそうがあって、大人の人たちは、日本はせんそうにまけたといって泣いておられました。母をはじめ私たちも、がっかりしていました。
ひろしまについても、なにもなく、一日一日とすごしていきました。私もけがをしているため学校にはいかれず、十一月に入って、おしりのきずがいたみだしたので、しゅじゅつをしてもらうと、一センチぐらいのガラスが出てきました。十二月二十三日、母は赤ちゃんが生まれたため、私が学校にはいる時には、十三歳の兄につれられてゆき、ふたたび一年生になりました。食べるものもないし、赤ちゃんをつれている母は、金もうけもできないので、私たち一家は、今から思えば血の出るような生活をつづけました。
よく年の十一月には、母は赤ちゃんをつれて市役所のドカチンにゆき、わずかなかねもうけをしました。兄も学校をやめて、京橋町で店員としてはたらきました。今では母は、新聞のしゅうきん人としてはたらき、きょねん一月には、ほんしゃからひょうしょうじょうをもらいました。父がなくなった年に生まれたおとうとも、もうあの時から六年たって、らいねんは一年生です。私も六年生になりました。私は父がいないので、母の手だすけをするため、家へかえっても、べんきょうもじゅうぶんできず、お父さんのある友だちを見れば、うらやましくてたまりません。でも早く一人前の人になって、家をりっぱにし、母にこうこうをつくします。
『原爆の子-広島の少年少女のうったえー』長田 新(おさだ あらた)編より
〔 吉田智加江さんの紹介 〕
○吉田智加江さん(旧姓松本)さんは、被爆当時1年生6才の時、爆心地から約1.6キロメートル離れたお寺で被爆。被爆6年後の1951年(昭和26年)に広島文理大学長を務めた長田新(おさだ あらた)さんは、被爆した子供たちの作文1175人分を集め、その中から105人を選び『原爆の子』と題して、岩波書店から出版。松本智加江さんの作文も掲載された。
〔 メッセージ 〕
70年前の苦しみは、二度と子供たちに遭わせてはいけない。
今の大人たちが、もっともっと考えを変え、明るく、優しく、温かい思いやりの心を持つこと、
親と子供もいっしょになって、本当の平和を願って、一つになる様にしていくこと、
世界中が手を取り合って、初めて戦争のない平和が来るのだろうと思います。
平和は身近な所から始まり、少しずつ大きな力にしていく事だと思います。
岸田 弘子(きしだひろこ)さん (旧姓 藤井)
8月6日
1945年8月6日、私は6歳の時、爆心地から北へ1・5㌔の横川町の自宅で被爆しました。当時、私の家族は祖父、母、兄、私、弟の5人でした。父は徴兵され中国に行き、広島にはいませんでした。
8月6日午前7時ごろ警報が鳴り防空壕に隠れました。警報が解除されて、小学2年生の兄は登校し、自宅には4人がおりました。
8時15分の少し前、私は、トイレの中にいました。「おかしいね。まだ飛行機の音が聞こえる」という母の声が聞こえたので、トイレの窓から外を見ました。でも何も見えないので、身をかがめた瞬間「ドーン」という地響きの後、真っ暗になりました。
どれくらいたったのか、気がついた時は、周りの土壁が崩れた中に埋もれていました。圧迫感と息苦しさの中、頭を動かすと顔が半分出ました。大声で「助けて!お母ちゃん!」と叫ぶ私の声を聞いて、母は私を掘り出し、助けてくれました。
その時、家の2階部分が丸ごと吹き飛ばされていて、階段からは空が見えました。幸い、一本の柱を支えに空間が出来て、そこにいた祖父と母と弟は奇跡的にケガもせず、みんな無事でした。
いつもは2階にいる祖父は、朝食のため1階に降りていて助かったのです。でも、祖父は右半身が不自由だったため、常日頃から「何があっても、自分はどこにも逃げない」と言っていました。母は「一緒に逃げよう」と言いましたが、祖父は「私はいいから、逃げなさい」と母をせきたてました。母は仕方なく、弟を背負い、私の手を引いて、祖父に「また後で必ず戻って来るから」と言い、外に出ました。その瞬間、玄関も崩れ落ち、出口がふさがり、祖父に二度と会うことができませんでした。
避難する人の流れ
外に出ると、みな裸同然で、裂けた衣服や、焼けただれた皮ふの人が大勢いました。私は母の手をしっかり握って、郊外へと歩き続けました。
途中は、皆ガレキの山で、近くまで火がまわり、みな裸足なので、足にガラスの破片でケガをしてヤケドを負っていました。私も足にガラスが刺さっていましたが、痛みを感じるゆとりはありませんでした。
黒い雨
30分位して、誰かが「雨だ!」と叫びました。それは、初めて見る黒い雨でした。私たちは道端の畑にあったムシロを見つけ、一人ずつ頭にかぶって座り込み、雨がやむのをじっと待ちました。
その時、目の前の畑にあった真っ赤なトマトに、タールのような真っ黒でネバネバとした水滴が落ちているのが目に入り、気持ちが悪くなりました。鮮やかな真っ赤なトマトに流れていた黒いしずくが目に焼き付いて、その不気味な光景は、今も忘れることはできません。ですから、今も大きなトマトは食べることができません。
死んでいる子を背負った母親
夕方近く、避難所となっていた農家の庭先で、おむすびを一人一個ずつ頂きました。その時のおいしさは、今でも忘れることができません。
そして、そこにいた若いお母さんの姿を、生涯忘れることができません。そのお母さんは血まみれの顔で、背負っている子どもはすでに死んでいました。そのお母さんは「まま(ご飯)を食わしてやれんかった。誰か、この子にままを食わしてやってください。誰か。誰か」と、泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただ繰り返し、一人ひとりにすがるのです。でも、誰もどうしてあげることもできません。
私がおむすびを一気に食べ終えた時、偶然、母は友人に出会い、二人で抱き合って無事を喜び合いました。それから私たちは、爆心地から30㌔離れた郊外の母の友人の家でお世話になることになりました。
母は祖父と兄を捜しに広島へ
翌日から、母は祖父と兄を捜しに、毎日、広島市内まで出かけました。広島の街は爆心地から約2㌔以内が全壊、全焼となり、まだ火の熱も残っていて、爆心地から1・5㌔の自宅周辺には近づくことができませんでした。
3日位たって、ようやく自宅に近づくことができました。しかし、すべてが燃えて、灰になり、祖父のお骨を見つけることができませんでした。
祖父がどのような状態で息を引き取ったかわかりません。私は願います。「どうか、祖父が生きたまま焼け死んだのではなく、火災に巻き込まれる前に亡くなっていますように」と。そして、今思うと、祖父を残して逃げた母の心の痛みは、一生消えることはなかったのではないかと思います。
大ヤケドをして帰ってきた兄
それから、母は小学校に行ったまま帰らない兄を毎日捜し続けました。一週間経った8月13日、なんと母は兄を背負って帰ってきました。当時、あちこちの電柱や崩れた壁などに張り出されていた名簿に兄の名前を見つけ、母は救護所となっていた幼稚園に向かい、兄を見つけたのです。
兄は熱線によって、直接肌が出ていた手足と背中の一部を大ヤケドしていました。薬がなく、私と弟でキュウリをすりおろし、傷口に塗りました。その傷口は治らず、近所のお医者さんにウジを取り除いてもらい、治療は赤チンという消毒薬を塗るだけです。少しずつ傷も回復しましたが、ヤケドが治ったあとが引きつり盛り上がり、いわゆるケロイドとなりました。
また、なぜか3年ぐらい経ったころ、ヤケドの傷がぐずぐず化膿し始め、兄はまた苦しみました。私は原爆の影響だと思います。兄は夏になると、半袖で腕のケロイドが見えるため、友だちから「離れて歩け」、「近寄るな」と、いじめに遭いました。
一方、私も足に化膿したオデキが次々とできるため、〈これも被爆のせいなのかなあ〉と不安はいつも消えることはなく、何かあると〈もしかして〉と疑ってしまうのです。
シベリア抑留から帰ってきた父
戦争が終わって3年の月日が経ち、1949年、父が生きて帰ってきました。父は兵士として中国にいましたが、シベリアに抑留されていたのです。戦後、60万人もの日本人が旧ソ連の捕虜としてシベリアに連れて行かれ、過酷な重労働で6万人以上が亡くなったと言われます。
父は92歳で亡くなるまで、戦争のことは何も話しませんでした。でも亡くなる少し前「戦争はいけん。二度とあってはいけん」といいました。これが父の心からの叫びでした。
原爆孤児になった夫の体験
夫は当時6歳で、兄と姉と共に3人で郊外の親戚の家に避難していて無事でした。しかし、夫の両親と3歳の弟は爆心地から約1㌔の竹屋町の自宅で被爆しました。夫の母と弟は倒れた柱の下敷きになり、父は母と弟を助け出せず、見殺しにして逃げるしかなかったのです。母の遺骨を胸に、郊外の実家に帰ってきた父も1か月後、原爆症で亡くなりました。
残された3人は孤児となり、別々の親戚に引き取られました。夫は東京の家族5人で暮らすおじさんのもとに引き取られました。日本中が食糧難の時代、夕食はおじさん家族の残り物しかなく、いつもお腹が空いていました。
中学生になり、広島に住む別のおじさんに引き取られました。おじさんは6人家族で、東京のおじさん以上に、甘えることは許されませんでした。中学2年生の時、学校で「親なし子」といじめられ、そばにあったイスを思い切り相手の子に投げつけ、大ケガをさせてしまったこともありました。
つらいことがあると「両親さえいてくれれば」と恨むことも度々でした。社会人となっても苦しみは続き、自殺を考えたこともあったのです。しかし、仏教の教えに出会ってからの夫は、生き方が大きく変わりました。私と結婚し、3人の子供に恵まれました。家族の温もり、多くの人との出会い、支えを頂いて、生きる素晴らしさを味わい、50年の生涯を終えました。
生かされて
夫も私も、原爆で大切な家族を失いました。私は、今、ここに、命あることの不思議さを感じます。多くの人々の支え、出会いの奇跡、神仏の大きなおかげの中に生かされていることに、今は感謝でいっぱいです。私の命は仏さまから「平和のために命を使いなさい」とご使命を頂いた命だと実感しています。
平和とは
平和とは、戦争のないことだけでなく、安心して生活ができること、一人一人が輝いていること、みんなが幸せを感じることだと思います。
日常生活を一瞬で地獄絵図に変えてしまう破壊力を持つ核兵器は、絶対に許してはなりません。無念な思いで亡くなった多くの人たちの声なき声を後世にお伝えするのは、広島の地に生まれ、住んでいる者の務めと思います。命をかけて守ってくれた母に代わって、また、恨みを祈りに変えた夫に代わって、平和への発信をしてまいります。
これからも命の尊さ、家族の大切さ、平和の大切さを、心を込めてお伝えしていきます。私の話を聞いて下さった皆さんも、今日から伝承者となって伝えていってくだされば、とてもうれしく思います。
どうか、一日も早く世界に平和が実現しますように、今日、お集まりの皆さまと共にお祈りいたします。ご清聴ありがとうございました。
◇2019年8月4日証言より
波田スエ子(はだすえこ)さん
今、テレビでウクライナの映像を見ると涙が出て、あの人たちはどうされているかと思うと、胸が痛くてたまりません。戦争は決してしてはいけません。
微力ですが、今こそ、戦争の悲惨さを、皆さんに、ぜひお話ししなければいけないと、強く思っております。
私が被爆したのは、小学校3年生8歳のときでした。
1945年4月から、小学5年生の姉と私は、郊外のお寺に学童疎開をしていました。8月になって、私の母と何人かのお母さんたちが、〈ひもじい思いをしている子どもたちにしっかり食べさせてやりたい〉という親心から、二、三日したら戻すつもりで迎えに来ました。それで、市内の家にたどり着いたのが8月5日の朝でした。
4か月ぶりに会えたうれしさで大はしゃぎしました。5日の晩は星が降ってくるような、とてもきれいな星空でした。姉妹4人で楽しい夜を過ごし、私は両親の間に入って、父と手をつなぎ、母に手枕してもらって寝ました。
6日の朝、目がさめた時は、もう父も母も出かけていて、家には姉妹4人がおりました。自宅は爆心地から800メートルの所にありました。
8時15分、ピカッと、たとえようのない閃光で一瞬目がくらみました。アッと思った瞬間、体中の内臓が飛び出たかと思うようなドーンという大音響と衝撃を感じ、そのまま気を失いました。
私たち4人は家の下敷きになっていました。「助けてぇ、助けてぇ!」とみんなで声をそろえて叫んでも誰も来てくれません。
そのうち、体が生ぬるくベトベトしているのに気づいて、体を見ると、白っぽいワンピースが血で真っ赤にそまっていました。どこだろうと手で探ると、首に穴があいていて、指がブツッと入って、血が吹き出ていました。下の方から聞こえるお姉さんたちの声も苦しそうになってきました。
だんだん煙が入って来て、火の音がパチパチとし始め、必死の思いで、すきまを見つけ、私だけが何とかガレキの下から這い出ることができました。
外に出て見て、ほんとにびっくりしました。外は薄暗く夜のようで気味悪く、周りを見ると、今まで見たことのない地獄のような光景がそこにあり、恐ろしさに体が震えました。「お姉ちゃんを助けてください」と助けを求めましたが、誰も来てくれませんでした。一人でも姉を助けようと家に戻ろうとしましたが、街中ががれきの海になっていて、家があったところがわかりません。
私には、どうしようもなく「お姉ちゃん、ごめんね、ごめんね」と云いながら、火のない方向へ大人について逃げるしかなかったのです。まだ生きていた姉の「誰かを呼んで来て、早う助けて!」という声が耳に残って、今も忘れられません。
姉たちを置いて逃げたことが、七十七年たった今も苦しくつらいです。両親も行方不明のままで遺骨もなく、私は一人ぼっちになってしまいました。
火の海の中を一人で逃げ惑う途中、前身ヤケドでずるむげになった皮ふがぶらさがった人が、幽霊のようにぞろぞろと歩いていました。
そして、倒れて動けない人が、8才の子どもの私に「水を、水を」と助けを求めて、小さな足にすがりついて来られるのです。みんな普通の顔ではありません。怖くて心細くて、一緒になって泣くばかりでした。川を見ると、水面が見えないくらい、いかだがたくさん浮いているように見えました。でもよく見たら、いかだと思っていたのは人間だったんです。
夜になっていっそう淋しく両親を探し求め、さまよい歩き続けました。ひとりぼっちで、広島市内を二日か三日、野宿したように思います。
逃げる人の後について収容所にたどりつき、やっと首のケガを麻酔なしで、縫ってもらいました。その収容所では、炭のように黒こげになった人、傷口にウジ虫がわいた人、人間ではないような姿の人がごろごろと、そこらじゅうに、ころがっています。
私のすぐそばで、「ウォー、ウォー」という動物のような断末魔の声をあげて何人もの人が、毎日死んでいくのを見て、私もそうなるのでないかと怖くてたまりませんでした。
その後、収容所を出て、神崎小学校に行くと、私たちを捜しにきていた担任の先生と偶然再会しました。先生が「五島か!生きとったんか!」と抱きしめて下さり、ものすごくうれしかったです。
八月十五日に、会ったこともない義理の姉夫婦が私を引き取りに来て、育ててもらいました。原爆によって、私の人生は大きく変わってしまいました。
翌年、その家に赤ちゃんが生まれ、その子のお守りをしました。おむつを川で洗って、干しておかないと学校へ行かせてもらえないので、手はひびだらけでした。養ってもらっているんだから、何を言われてもその通りにしなきゃいけないと思い、食べるものを遠慮して、いつもお腹がすいていました。
そして、両親が亡くなった姿を見ていないから、行方不明のままっていうのはね。待つんですよ。家から遠い電車の停留所に行っては、毎日毎日、〈お父さんかお母さんが、電車に乗って迎えに来てくれる〉と思って、最終便の赤いランプが見えなくなるまで、待ち続けました。あの時の寂しさは言葉になりません。
その後、15歳の時に何もわからないまま結婚し、17歳で長女を、2年後に長男を授かりました。その時がほんとに一番うれしかったです。でも、いろんな悩みや不安があっても相談する人がいなかったので、つらくても一人で悩むしかありませんでした。
1987年、私は、シェーグレン症候群という涙や唾液が出なくなる難病と診断され、治ることはないと言われ、ショックでした。それを機に仕事をやめて、仏さまの教えを求めて、真剣に教えを学びに行くようになりました。
そこで人に勧められ、1994年から被爆体験証言を始めました。証言する前は、悲惨な記憶が次々とよみがえって、眠れない日が続き大変つらいです。でも、子どもたちの感想文を読むと私の話が伝わっていることが感じられました。
証言のご縁を通して、私の心が大きく変わっていきました。
私はこれまで、義理の姉の「あんたが死ねばよかったのに」という心無い言葉に傷つき、罪悪感から〈私は幸せになってはいけないんだ〉と思い、下を向いて生きて来ました。
でも仏さまの教えを学んだことで、なんでもすぐマイナスに考えていた私が、前向きに思えるようになりました。そして、まず私の心が平和になっていくことが大切であること、また一瞬一瞬を大切に生きていきたいと思えるようになりました。これも教えのお陰さまと思います。
私は、原爆でたった一人生き残ったのは、このお役を果たすために生かされてきた命だったのだと気づかせて頂きました。
一人ぼっちになった私ですが、二人の子どもを授かり、今では孫が4人、ひ孫が6人、家族が増えて命がつながり、とてもありがたいです。孫の一人は、原爆を落とした国、アメリカの人と結婚しました。まさか原爆を落とした国の人と孫が結婚するとは思ってもみませんでした。孫娘がこれから日米の平和の架け橋となってくれることを願います。
戦争ほど残酷なことはないです。どんな理由があろうと戦争だけは絶対にしてはいけない。もう私のような体験は、皆さんにあってほしくないです。
今世界では環境が破壊され、災害も起き、戦争まで起きて、多くの命が失われています。いつ何が起こるかわからない世の中です。
これからも、たくさんの有難い出会いに、日々感謝して生き、一人でも多くの方に命の大切さと、戦争がどんなに悲惨で愚かなことかを、体験者の一人として命のある限り伝えてまいります。
今も戦争をしている国の人々に平安な日々が一日も早く訪れますように、心からお祈りしております。
(2022年10月29日証言より)
石井 冨美子(いしい ふみこ)さん (旧姓 岡田)
私は18才の時に被爆しました。爆心地より1.2キロの自宅で、家の下敷きになりました。その当時、私は、宇品港にある船舶司令部の船舶廠、暁第六一四○部隊の経理部に勤めておりました。
8月6日
8月6日の朝、荷物を田舎に疎開させるため、勤めを休み、母と二人で朝7時すぎに広島駅へ向かって家を出ました。途中で空襲警報が鳴ったので、急いで家に帰りました。やがて空襲警報が解除になり、上着をぬいで、ほっと一息ついたときです。
前の家の男の子の「飛行機がいるよ」と言う声が聞こえて数秒後、窓ガラスの向こうが、真っ白く明るくなり、次の瞬間、空気全体が燃え上がったように感じました。まるで打ち上げ花火の真ん中にいるように、周りじゅうにパチパチと音をたてて火花が飛び散ったのです。
母が私の名をさけんで走って来て、私の上に覆いかぶさると同時に、ドーンという大きな音がして真っ暗になりました。
その後は、何がどうなったのかわかりません。体が動かなくてただ〈重たい、重たい〉〈アツイ、アツイ〉と思っていました。シーンと静かな中、どれくらい時間がたったのかはわかりません。
母は肩から、かすりの上着を通して血が吹いています。ソーッと見ると、肩から背中に大ケガをして傷口が開いていました。私は、下あごを打って、切れて歯の付け根から唇がぶら下がっていました。足の指は肉がなく骨が出ていました。熱かったのは、瓦の下の赤土が焼けて、肌にくいこんでいたからでした。壊れた家の木材や板を押しのけて、ようやく這い出しました。
川のそばにあった家の土手を上がった時、初めて大変な、今まで見たことのないことが起きたのだとわかりました。見渡す限り、家という家はひとつ残らず崩れ落ちていました。道いっぱいに座ったり、うろうろしたり、真っ黒に焦げた人、赤い顔、赤い背中、その人たちは皆裸です。たくさんの人が、両手を胸の所に上げて、真っ白い薄い布のようなものを下げています。布だと思ったのは、肩から指先の爪まで、皮ふが、はがれて爪の所で止まっていたのです。
うつろな目で、何か口の中でつぶやきながらふらふらと通り過ぎていく姿は、とてもこの世のものとは思えません。〈地獄とはこんなものか〉と思いました。
縮景園で
縮景園に着くと園内はケガ人でいっぱいでした。私たちは、川へ降りる石段を見つけました。時間はわからないが、爆発音がして真っ暗になり、真っ黒な雨が滝のように降ってきました。ヒョウのようなかたまりが、頭や背中に当たり、〈痛い!〉と思いました。手でさわると、排気ガスの油のようにベッタリとなっています。
その後、京橋川の向こう岸が大きな音と共に家が焼けて、暴風のような風と共に、火の粉が飛んできて、樹に燃え移ります。
夜、真っ暗になって、二人で川の階段に座って、腰まで水に浸かって、つぶれたバケツで何杯も水をかぶりました。母は「生かしていただこう!生かしていただこう!おまえも、しっかり神様、仏様にお願いして!」と言いました。二人で朝方まで一生懸命、祈り続けました。
夜が更けても、人々の泣き声や叫び声が、遠く、近く、まるで地のそこから響くように聞こえてきました。
少年との出会い
一夜が明け、私たちは、6㌔ほど離れた親戚の家に行こうと縮景園をあとにしました。街の中に入っていくと、ガレキの山となった道に数え切れないほどの死体が転がったままになっています。そのほとんどが丸裸の状態で焼けこげているのです。
我が子をかばおうとしたのか、うつぶせになって死んでいる女の人の下で、かすかな泣き声をもらしている赤ちゃんも見ました。
足のすくむ思いで必死に歩き続けるうちに、ふと気がつくと、一人の少年が私たちの後からついてきています。十二、三歳でしょうか、破れた白いシャツに点々と血がにじみ、顔が真っ白で、目だけ出して、フラフラとついてきます。
私たちが立ち止まると、その子も立ち止まり、少し離れたところからじっと見ています。その瞳には、すがりつくような必死の思いが込められていました。〈ああ、かわいそうに…。ひとりぼっちになって救いを求めているにちがいない〉と、胸がしめつけられる思いでした。
自分たち自身、果たして親戚の家にたどり着けるかどうか、その家が無事なのかもわからないのですから、その子を背負い込むことなど、到底出来るはずがありません。「ついてきてはダメよ」と厳しく言ったときのその子の悲しげな表情が、今もはっきり浮かんできます。
逃げるように、私たちはその場を離れました。しばらく行ってふりかえると、少年は、まだ同じ場所に立ってジッとこちらを見ていました。
今でも忘れられず、申し訳なく、何年、何十年たっていても思い出して胸が痛くなります。
爆心地付近
電車通りに出ると、道路一杯に人が死んでいます。福屋百貨店位あたりから、裸の死体がいっぱいで、チョコレートのような色をして、パンパンにふくれています。指で押すと風船のように飛んでいくのではないかと思うくらいです。爆風で飛ばされ、ビルの窓から落ちたままの姿で、たくさん死んでおられました。
やっと相生橋まで来ましたが「これ以上進めないから、家に帰ろう」と、母と二人で自分の家の方に引き返そうと、爆心地を通って、本通りに出ました。
元安橋のたもとから電車道までの通りいっぱいに、服を着たまま、すき間がないくらいの人が死んでおられます。ヤケドも何もないのが本当に不思議でした。そこを通らないと電車道に出られないので、人と人の間に足を入れて「ゴメンナサイ。ゴメンナサイ」と言いながら、またいで通りました。
電車道に出ると、電車が真っ黒こげで胴体と車輪だけの電車を何台も見ました。電車には、真っ黒焦げになった人が出口の所に折り重なっていました。旧市民球場のあたりに馬が十頭近く、茶色の毛がこげ茶色になり、風船のようにふくらんで横に並んで死んでいます。
西練兵場の方に行きました。そこには陸軍病院が建っていました。白い着物を着た兵隊さんが飛ばされて、仰向けになって、たくさん死んでおられました。〈戦地で病気やケガをされ、やっと日本に帰ってきて、故郷へ帰るのを楽しみにしておられただろうに〉と思い、気の毒で仕方ありませんでした。
やっとの思いで、我が家の焼け跡にたどり着いたのは夕方でした。
すると、そこで、父と弟が焼け跡を掘り返していました。名前を呼ぶと、かけだしてきました。四人で抱き合って「生きていてよかったね」と言って、泣きました。家族の温かみを感じました。
暁部隊へ帰って
私は二、三日くらいして、仕事が気になり、宇品の勤務先の軍隊に帰った時「生きていて良かったね」と言って喜んでくれました。
夜明けから兵隊さんたちがたくさん出ていかれます。夜暗くなって帰ってこられ、ただ黙って下を向いて、悲しそうな苦しそうな、また、怒りのような表情で疲れきったようすです。〈なぜだろう〉と思っていました。私たちは、お昼にオニギリを手のひらがヤケドするくらいに一生懸命作りますが、毎日ほとんど食べられないようです。
ある日、トラックで私の家へ連れて帰って下さると言われるので、急いで荷台に乗りました。そして、日赤病院の近くに来た時、初めて分かりました。兵隊さんが竹にムシロを通して担架を作って、死んだ人を乗せて運んでおられました。また、こちらの方では木のようなもので死んだ人をすくって担架に乗せていました。〈毎日、毎日の仕事だったのだ〉と、私は心の底から手を合わせました。
日赤病院の広場に、三階くらいの高さに、人と木を積んでパチパチと燃えています。悪臭と熱気でいっぱいです。また、ここでも〈生きていて良かったのか〉と思いました。
被爆した時、私は、口が切れていましたが、下アゴを押さえて、無理やり食べ物を押し込んで食べました。痛みも感じず、薬もつけず、一生懸命与えられた仕事をしていました。いつのまにか、口も足も何とか治りかけていました。
終戦後
終戦後も経理部の将校数人と私たち女子事務員3人だけで残務整理をしました。
年末になって、やっと家に帰ることが出来ました。自分という一人の人間として、やっと立ち直る心が少しずつ湧いてきました。
しかし、むごい人間の最期の姿をあまりにも多く見たためでしょう〈自分は生きていてもいいのか〉と悩み、全てに虚無的になってしまいました。体の後遺症以上に心の傷は深く、癒すことができませんでした。近所の人から心ない差別も受けました。
被爆して十年後、仏縁に会いました。数え切れない死者を思い、お経を唱えることで心が安らぎ、生きることのすばらしさを学び、前向きに生きるようになりました。
職場で出会った夫と結婚し、二人の子どもが生まれ、生きていく力がわいてきました。
終わりに
被爆体験は、戦後何十年経っても、思い出すことすら辛く、なかなか証言する気持ちにはなれませんでしたが、今は「私と同じ思いを二度とさせてはいけない。原爆を体験した自分が、少しでも多くの人に伝えなくては」と思い、証言させて頂いています。
私は、証言の前に、必ず平和公園の原爆供養塔に参拝し、「お陰さまで生かしてもらっています。亡くなられた皆さんのつらい思いを、代わりに私が一生懸命伝えさせていただきます。一緒に行きましょう。どうぞ成仏してください」と祈ってから、会場に向います。
証言するたびに18歳当時にタイムスリップするので、つらいと思うこともありますが、これからも命のある限り証言を続け、若い人たちに伝えていきたいと思っております。
ささやかでも世界平和のために役立てばと思います。一人一人の心の中に小さな平和があれば、世界中の人の集まりで世界平和が実現すると思います。
(『ヒロシマ「その時」原子野に生かされて 第二集』より編集)